小さいころ両親に連れて行ってもらった山登り。頂上に着いたときのお弁当が楽しみで、早速蓋を開けてみると、おにぎり三つとウインナー、それに絶対に忘れてはならない黄金色の「あれ」。
定食屋にいって少し油っぽいものを食べる。そこに良いタイミングで出されるお茶。そのとき絶対ほしくなる「あれ」。おかずとしてではなく、そのままぼりぼり食べてもよし、な「あれ」。皆さんにとってもっとも馴染みの深い添え物のひとつである「あれ」は、そう沢庵漬けです。
沢庵は昔から日本の食卓になくてはならないものでした。言い伝えによると沢庵和尚によって沢庵付けが開発された当時の江戸時代には既に江戸っ子たちのちゃぶ台を大いに賑わせていたといいます。
そのような沢庵漬けの江戸での大消費によって一躍活況を迎えたのが、今回取材に伺った練馬区の練馬大根。なんと、前代未聞の「大根引っこ抜き大会」が12月2日に区内の某「畑」で開催されると聞きつけ、急ぎ現場に向かったのです。
ここで少し練馬大根の起源と歴史についてお話しましょう。
練馬大根が生まれた練馬の土壌は赤土層の関東ロームで、火山灰が粘土化した土壌はやわらかく大根など根を深く張る作物の栽培に適しています。また、大根は栽培される土壌の性質にその形状が大きく左右される作物であり、土の粗さによって桜島大根のような丸い形になったり、練馬大根のような太くて長いものにも育ちます。
練馬で大根栽培が始まったのは元禄時代。一説には五代将軍綱吉が栽培を命じたとか。また、練馬で大根栽培が盛んになった理由として、江戸への近さが挙げられます。樽詰めにされた沢庵はとても重かったため、大消費地江戸に近かった練馬が運搬面で他の地域に比べて非常に有利だったのです。
ちなみに、練馬大根の代表的な品種は二つ。沢庵漬け用の「練馬尻細大根」と煮食用の「練馬秋づまり大根」です。この二品種を基調として現在までさまざまな品種改良が行われています。
さて、江戸での沢庵大消費により大量に生産されてきた練馬大根は、明治という新時代を迎えてさらに邁進してゆきます。日清・日露戦争の際に練馬の沢庵が大量に軍に納められ、それを契機に、鉱山や炭鉱、学校や病院などに大量に出荷されたからです。大正期に入ると東京への人口集中がさらに加速するとともに、市街地の拡大により農地が東京の西部に移行していったために、東京近郊の農生産の中心地の一つとなった練馬の大根は最盛期を迎えることとなります。
しかし、その後、食卓の洋風化や、安価な他の地域の大根の進出などによって練馬大根の消費量は減っていき、近年はほとんど生産されなくなりました。そこで練馬区は平成元年より復活・育成事業に取り組み、現在では年間11,000本ほどが生産されています。[出典:練馬区HP(http://www.city.nerima.tokyo.jp/daikon/)]
今回の「大根引っこ抜き大会」はそのようにして復活を遂げつつある練馬大根の知名度を上げると共に、練馬の地元の方々にもっと練馬大根に親しんでいただき地産地消を促進しようと練馬区とJA東京あおばが主催したものです。なお引き抜かれた大根は区内の小中学校に給食として供されました。
今回の大会は今年が第1回目ながらも実にたくさんの参加者でごった返していました。老人の方や若い、家族連れのかた、グループでの参加など多様な構成でしたが皆さん思い思いに大会を楽しんでいたようです。なぜ今回のように練馬大根を引っこ抜くことが競技になるかといえば、それは練馬大根が中太りの品種で非常に抜きにくく、熟練していないとすぐに折れてしまうからです。
大会のルールは、制限時間内に大根を何本抜けるか、ただし2本折った時点で失格、というものだったのですが、多くの参加者が大根を折ってしまい涙を飲んでいました。一生懸命となりのグループと競って早く抜こうとする子供たち、昔取った杵柄で楽々とどんどん抜いてゆくおじいちゃん、子供にいいところを見せようと奮闘するお父さん、それをとても楽しげに見守る皆さん。軍手が滑りながらも、審判の方に抜き方のコツを聞いて、地面を掘り掘り、折れないように慎重に抜く人もあれば、ええいままよと力任せに抜いてしまってやっぱり折れてしまい応援していた家族の方に恥ずかしそうに照れ笑いを向ける人もいました。
主催者の方たちも、開始の合図である「プル!」(「プル!」で引っこ抜き始める。ちなみに「グリップロック」で大根を握り、「ステディ」で腰を落とす。)をとても威勢良くおっしゃっていて、会場全体は熱気にあふれ、何よりとても楽しげな雰囲気に満ちていました。練馬大根の精である「まりねちゃん」やNHKのキャラクター「ドーモ君」などのコスチュームさんたちも多いに会場の盛り上げに貢献していました。(後篇へ続く)
コメントする