北風の吹きすさぶ11月に入ったある日、いくつかのメディアを通じて奇妙なニュースが報道された。神奈川県を流れて相模湾に注ぐ境川の支流、和泉川に、サケが遡上しているというのである。
サケの遡上が確認された場所は、横浜市泉区。
サケは普通、千葉県以北の太平洋側と、福岡県以北の日本海側の河川に遡上すると言われているが、近年、太平洋側においてその南限が徐々に南下してきているという。今回の発見は、その流れを汲むものなのであろう。NHKや読売新聞など、大手メディアが取材に訪れたようであったが、産卵の瞬間までカメラに収め得たところは、どうやら無かったらしい。
何とかして、類い稀な都会のサケを、この目で直に見ることは出来ないものだろうか? そして、さらに高望みをするのであれば、(NHKでも撮れていない)産卵の映像を撮ることは出来ないだろうか?
このような期待と熱意を胸に、記者を含む取材班は、澄みきった空気が快晴の秋空を引き立たせる今日(平成21年11月15日)、わずかな情報を頼りに現場へと向かった。
高架の線路を走る列車の窓からは、次第に近付きつつある丘陵地帯の雰囲気が、手に取るように感じられた。12時30分、予定通り、相模鉄道いずみ野線の「ゆめが丘」駅に到着。なだらかな丘を直線的に貫く鉄道と、その割にひどく閑散とした駅周辺......周囲を見渡しただけでも、横浜市に特有の、あのニュータウン風の町の様子がよく表れているのが分かる。
5分も歩けば和泉川に突き当たった。とりあえずサケを探すスタート地点に設定した「下和泉橋」を目指し、川沿いを南に歩く。幅はせいぜい8メートル程、ごく小さな川である。この辺りは住宅に挟まれているうえ、川岸が非常によく整備されていて、こんな所に本当にサケが現れたのだろうか? そんな風に疑いたくなるような風景が続いている。
報道から若干の日数が経っていたので、サケがまだ生きているという確証は無かった。また、和泉川と言っても相当な長さがあるから、川に泳ぐサケを実際に探すとなると、これは相当困難な作業になるだろうというのは十分に想像がつくことである。正直な話、産卵を見ることはおろか、サケを見つけることさえ出来なくても仕方がないだろうと考えていた。
我々の不安は、初めにすれ違った近所の方によって、あっさりと吹き飛ばされることになる。
「サケなら、もう少し下流の方にいますよ。私はさっき見て来ました。ちゃんと生きています。人がたくさん集まっているから分るはず」とのこと。
その言葉に従って歩くこと10分、道路の下をくぐるトンネルを抜けかけた時、前方に人の集まっているのが見えた。早くも目的地に着いてしまったのだろうか?
果たしてそうだった。下和泉橋、小さな橋だ。上流側は橋の影がかかっていて薄暗いが、下流側は秋の陽射しが一杯に当たって川底まではっきりと見え、その流れの中に静かに佇んでいるのは......
サケである!
大分傷付いているのだろうか、皮の黒色はところどころ汚い白色になってしまっている。これはメスで、砂利のある一定の範囲に止まって、あまり動こうとしない。時々、そのメスに近付いてくるようにオスも姿を現した。つまり、2匹のサケがいたことになる。暫く眺めていると時折メスが横向きに素早く動き出し、「産卵が見られるのか?」と、我々を大いに期待させた。
どうしてこの場所にサケが留まっているのかは、すぐに分かった。この橋の上流側の川床にコンクリートの段差が造られていて、これより上にサケが遡ることは出来ないのである。橋の上と近辺には、行く人来る人、常時15人位の人がいて、サケの様子を静かに見守っていた。子供連れの家族や、お年寄りの方々が多く、殆どは地元の方だった。
地元の方々からは、様々なお話を伺った。
初めは4匹いたそうだが、2匹は姿が見えなくなってしまっているのだという。
「せっかく産卵をしても、この辺りはコイが多いから、食べられてしまうのでは」
「この川に定着することはあまり期待出来ないだろう」
という残念そうなコメントが多かった。
その一方で、「和泉川は、昔は生活排水で汚れたドブ川だったのに、今はサケが上って来られる程に綺麗になって、嬉しい」
という喜びの声も沢山聞くことが出来た。最近ではカワセミも見られるのだそうだ。また、近所の農家の方は、どうして今年サケが遡上してきたのかについて、
「多分、海流などの影響で今年はサケが相模湾の方まで南下してきているのだろう。本流の境川の方にも上っているのかもしれないけれど、境川は大きすぎて、サケがいても見つかっていないだけなのでは」という考えを語って下さった。
さて、お話を伺いつつも、次なる目的はメスの産卵を見届けること。
橋の上で待つこと2時間、サケに詳しいという地元の方が現れ、我々は、驚きの事実を突き付けられることになる。
「あれは既に産卵を終えたメス。あの場所にいて動かないのは、産んだ卵を外敵から守るためです。」
おっと!? だとすると・・
......無駄に待っていた訳ですね......
取り敢えず、今回の取材の成果としては、都会のサケが見られたということで十分だろう。そう言い聞かせて、名残惜しい気持ちのまま和泉川を後にしたのであった。午後3時半、川の上を吹き抜ける風の冷たさは、夕方が確実に近付いていることを示していた。
何故和泉川にサケが遡上したのだろうか?
初めにも書いたように、太平洋側のサケの南限は千葉県であると言われている。しかし、近年、多摩川や横須賀でも存在が確認されるなど、情勢は変わりつつある。サケの稚魚を放つことも行われているし、海流の変化の影響もあるのだろう。さらに、今年はサケの水揚げ量自体も例年より多い傾向にあるようだ。自分の生まれ育った「正しい」川に戻ることの出来ない「迷い鮭」の存在も指摘されている。
我々がそうだったように、実際に川に上ってきたサケを生で見たことのない人は、意外と少なくないのかもしれない。命を賭けて遡上し、産卵し、死んでゆく魚の姿に、今までに感じたことの無い思いを味わうことは出来ないだろうか? そして、僅かな時間ではあるが、都会に住んでいることを忘れることも。
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