野龍です。今回は世間をにぎわす「脳科学」ブームをもとに、脳科学についてのセミナーを取材しました。
みなさんは脳科学と聞いてどのようなものを思い浮かべますか?巷には脳科学をもとにした情報や噂があふれています。書店では脳科学、脳活性化をタイトルに掲げた書籍が平積みされていてすぐに見つけることができますし、テレビ番組や広告でも「脳に効く!」ことをうたった商品が多く発売されています。
単純な計算を繰り返すことによって脳が活性化するということで、多くの小学校で百マス計算が授業に取り入れられ、書籍では『脳を鍛える大人の計算ドリル』(川島隆太、くもん出版)などの「脳を鍛える○○シリーズ」がベストセラーとなりました。
脳トレーニングをうたったゲームソフトも次々と発売されています。もっとも売れたゲームソフトとしては、ニンテンドーDS『脳を鍛える大人のDSトレーニング』とその続編となる『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』が全世界でなんと3100万本以上の売り上げを記録(2009年3月時点)しています。現在はこうした「脳トレブーム」の渦中にあるといってよいでしょう。
ところが、この脳トレブームが続く一方で、ブームにはさまざまな嘘や勘違いが含まれているという指摘がなされています。脳トレ書籍やゲームソフトが売り上げを伸ばし、脳科学をテーマにしたテレビ番組が増える一方で、それらの科学的な根拠を疑い、本当の意味での「科学」を実現しようと奮闘する方々がいるのです。
今回は、そうした誤った脳科学ブームに異議を唱え、警鐘をならす方の講演をもとにして、世間のブームについて考えたいと思います。
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2010年2月、「やさしい科学技術セミナー」第199回目の講演として、藤田一郎教授(大阪大学大学院生命機能研究科)による脳科学セミナー『脳の迷信』が実施されました。
場所は六本木の高層ビルが立ち並ぶ六本木一丁目、泉ガーデンコンファレンスセンター。今回のセミナーは予約制で、事前にHPをチェックしたときにはすでに予約満了となっていました。壁を取り払って会議室2部屋ぶんの収容スペースが設けられ、200人以上の参加者が詰めかけました。土地柄や参加者の募集形式などのためか、参加者のほとんどは40代以上の方々でした。こうしたセミナーの盛況ぶりからも、世間の方々の脳科学に対する関心の高さをうかがうことができます。
さて、この脳トレブーム、一体いつごろから、どのような背景で始まったのでしょうか?
今回講演をしていただいた藤田一郎教授の著書『脳ブームの迷信』(家族で読めるfamily book series 017,飛鳥新社)によれば、さまざまな学問の融合により、急速に発展しつつあった脳科学の成果がメディアを通じて一般社会に発信されるようになったのは1990年代に入ってからのことです。当時は認知症や「キレる」子供、新たな精神病などの増加が問題視され、その解決の糸口として脳科学が注目され始めていました。脳科学ブームの始まりには、社会問題の解決という必要性があったのです。
また、社会的要因として、世間の人々の関心の対象が変化してきたことも一因と考えられます。高齢化社会となり、高齢者介護の必要性が高まってきたことが日々メディアで伝えられたり、アンチ・エイジングの技術が発達したりすることで、「自らも加齢に備えて何かしなくてはいけない」という意識が社会に広がり始めました。認知症、その中でも特に若年性アルツハイマーは50代前半での発症が確認されています。自分が認知症などになるのも決して遠い将来のことではないという不安を抱えている人もいるでしょう。
さらに2000年代の健康食品ブームの中で健康志向の商品が多く発売され、必要な栄養素を食品からではなくサプリメントから個別に摂取することに何の違和感もなくなったことで、「~~に効く」という触れ込みの商品に頼ることが多くなってきたのではないでしょうか。その結果、「脳の機能向上に効く」「ストレスに効く」といった宣伝文句が受け入れられ、頼りにされるようになったと考えることができます。
脳科学の発展が社会に伝わり、さまざまな問題の解決の糸口が見えてくる一方で、メディアによる喧伝や脳に良いとされる商品の増加などにより、不正確で疑わしい情報もまた世間に流布されました。脳「科学」という名前がつき、科学的根拠があるような装いをもっているため、世間の人々に疑われることも少なく、信用されてしまったのです。
食品の例を挙げれば、魚に含まれるDHAが脳に良いとされ、魚肉ソーセージやマグロなどがDHAを多く含む食品として宣伝さています。また、GABAという物質がチョコレートなどに含まれ、GABA入りのチョコレートが「ストレス社会で戦うあなたに」という触れ込みで宣伝されたこともありました。
最近では商品だけでなく、脳科学の専門家を名乗る人たちが次々とテレビに出演し、書籍を執筆するようになりました。『世界一受けたい授業!』(日本テレビ系)などの学習情報番組に出演したり、「脳トレ」本をいくつも出版したりとその活動は広範です。そしてこのところ目をみはるのが、ニンテンドーDS用ソフトとして発売されている脳トレソフトの数々です。子供だけでなくサラリーマンやご年配の方なども多く、タッチペンを用いて脳トレに励んでいる姿が各所で見受けられます。
藤田教授はこうした流れに対して、それぞれに疑問を投げかけ、自身で検証を行っています。
たとえばGABAについては次のように検証しています。GABAはガンマアミノ酪酸の略で、抑制伝達物質として、その関連物質が医療の現場で精神安定剤として使用されているものです。このことから、GABAを含んだ食品を摂取することでストレスが軽減される、と考えられるようになりました。しかしながら藤田教授は、これには科学的根拠はないとしています。実際にGABAが作用するためには神経細胞同士の接合部位であるシナプスのすきまに到達しなければならないのですが、口から摂取したGABAのほとんどはシナプスにたどりつくことができず、したがって望まれているような効果は期待できないというのです。メーカー側はホームページでマウスを用いて科学的に効能を実証したと主張していますが、その実験方法自体が科学的でなく、効能が真に実証されているわけではないとして、商品の効能に疑問をなげかけています。
また、藤田教授はニンテンドーDSソフトについても例を挙げて検証しています。ゲームソフトのうちで最大の売り上げを記録した『脳を鍛える大人のDSトレーニング』シリーズは、東北大学の川島隆太教授が監修を務めています。同ソフトのホームページには、脳を鍛えることがどのようなことなのかが説明されており、さまざまな作業をしているときの脳の活動範囲を、機能性MRIを用いた血流図であらわし、複雑な問題を解いているときよりも、簡単な計算問題を速く解いているときのほうが、活動部位がはるかに広範であることが示されています。
ところが藤田教授は、挙げられた実験データについて、その実験方法自体を疑っています。川島教授は、実験の一つとして、認知症患者に計算と音読を週に2~5日、半年間行ってもらい、学習を行っていない認知症患者に比べて脳にどのような変化が起こるかを調べています。この実験の結果、認知機能の低下の防止、前頭葉機能の改善に成功したとされています。
しかしながら、科学実験の方法論からすれば、この実験のやり方自体に問題がありました。適切な対照群の設定のない状態で実験がなされていたのです。この実験においては、音読や計算をする人たちには、専門の若いスタッフがつき、会話や指導を行う中で実験が進められていていましたが、対照群とされていた人たちには若いスタッフがつくことがなく、したがって脳の機能の向上が「若いスタッフと半年間交流しながら音読・計算を行った人」と「何もしなかった人」との間で比較されていることになり、適切な科学実験とは言えず、単純作業を繰り返すことが脳の機能を向上させることの裏付けにはなっていない、と藤田教授は主張しています。
また、川島教授本人も、このことを認めており、認知機能の上昇はスタッフとのコミュニケーションの機会の増加によってもたらされたのかもしれないという解釈を示しています。この実験は留保のあるものなのです。
ところが、ニンテンドーDSソフトとして発売するにあたっては、このように根拠として不十分な実験が、商品の効果を科学的に裏付けるものとして扱われています。発売元の任天堂は、ソフトを開発する際には川島教授が脳の活性化に効果があることを科学的に実証した内容のみをソフトに収録しているとし、あくまで川島教授の研究をゲーム化したものという姿勢を示しています。
藤田教授は、こうした反証例を数多く示し、脳科学者が時間をかけて検証すれば、世の中にあふれている脳科学の情報の大半が、しっかりとした科学的根拠のない憶測であることを示しています。さらには、そうした情報が確実なものでないことを薄々知りながらも、商売のために、まるで科学的根拠があるかのように装って販売している企業も多くあることを指摘しています。
しかしながら、脳科学者によるこうした「審判」は、簡単に行えるものではありません。
〜 後篇につづく 〜
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